熊本城は、秀吉の朝鮮出兵で名高い
加藤清正が7年かけて築き、今年
築城400年目を迎えます。
2代目加藤忠広は幕府より
「改易」され、出羽庄内に島流し。その後、小倉から来た
細川氏が明治まで11代(239年)にわたって統治します。
(「改易」=武士の籍を除き、領地・家屋敷を没収した刑罰)
秀吉譜代からの名門大名加藤家が「改易」されたのは、徳川将軍家の深謀遠慮という見方も。父の築いた城を追われた側の気持ちはいかばかりか。
旧肥後熊本藩主第18代当主の
細川護熙(もりひろ)氏は’93に首相を務め、政界引退後は陶芸の道に入り晴耕雨読の生活。
世が世なら「お殿様」だった方は、さすがに引き際も潔く美しい。
お城の石垣は「武者返し」と呼ばれ、美しい曲線を描いています。
石垣以外は「戦争でほとんど焼失」と聞いて、第2次大戦かと思いましたが、そんな「最近」のことではなく、1877(明治4)年西南戦争のことでした。
現在築城400年記念として、大規模な復元整備を進めています。
広大な敷地に雄々しくそびえ立つ熊本城の近くの
「旧細川刑部(ぎょうぶ)邸」も見逃せません。
細川刑部家は、肥後藩初代細川忠利公の弟が興したいわば分家です。
分家とは言っても、「建坪」約300坪の全国有数の上級武家屋敷で見応え十分。
玄関は2つあり、「正玄関」は唐破風屋根と式台付きで当主・重臣など専用、それ以外は左にある「御次玄関」を使います。
重要な来客用応接間は
「表御所院」という格式ある部屋です。
庭に面して板張の廻り廊下があり、さらにその内側には畳敷の廊下
「御入側(おんいりかわ)」、その内側が「応接間」です。
細川家の直臣は入室できますが、陪臣(家臣の家来)は高禄でも「入側」からしか話せないとのこと。
屋根瓦にも細川家紋所
「九曜(くよう)の紋」がありました。
調度品などにも「九曜紋」はありますが、分家である(「うち家紋」)ことから質素に
「線」九曜にするなどの工夫もされたそうです。
分家の「長岡」家としての紋は、「マルにイチビキ」
このお邸は、市内の別の場所から移築復元したそうです。
1985年竹下内閣が「ふるさと創生構想」を打ち出し、全国の市町村に一律
1億円を交付しました。
これは「”地方が知恵を出し、中央が支援する”という発想から、市町村が自主的・主体的に実施する地域づくりへの取組み」でした。
実際には使いみちに困って、1億円分の金塊を買って住民に公開したり、役人が「研修」と言う名で海外豪遊したりという訳の分からない使われ方もして話題になりました。
熊本市はこれで熊本城三の丸の用地を買い、4年かけて移築復元したのです。
1億円の価値を十分発揮した「肥後魂」に、心から敬意を表します。
熊本バンザイ!